山内溥とは一体どういった人間なのか?
任天堂を世界的大企業に育て上げた中興の祖である一方、大のマスコミ嫌いであまり表舞台には出てこず、どういった人間なのかなかなか知ることが難しい。
今回は数少ない山内溥さんに関する資料からその人物像を解明していきたいと思います。
ボンボンの息子
いくら当時の任天堂が小さな会社であったにせよ、任天堂はそのとき花札トランプの国内トップシェアで金持ちの息子でした。早稲田大学専門部法律科に進学し、さぞ勉学に励んだのだろうと思いきや「東京の大学でしたい放題のことをして遊んだ」と言うくらい遊び惚けていたらしいです。
2代目社長が亡くなり急遽社長に
2代目社長山内積良さんが突然病に倒れ、次期社長に抜擢。しかし従業員からの反応は冷ややかで「もう任天堂は終わった」と言われる始末。腹が立った山内溥さんはなにくそという気持ちで社長に就任しました。
社長就任後、プラスチック製のトランプ製造工場を建設します。借金までして建設を行い、同業者から花札屋に工場は要らないのにやっぱりボンやなと非難されますが、結果的にその後のディズニートランプが大ヒットし、トランプ、花札業界でシェア80%以上を取り、大阪証券取引所と京都証券取引所に上場します。
青年山内溥さんの絶頂期がここにあります。
任天堂経営危機
めでたく上場したものの花札やトランプは何個も買うものではないので、一度普及してしまうと瞬く間に売れなくなりました。そこで山内溥さんは多角経営に乗り出します。京都の宇治に食品会社を設立しふりかけを製造しヒットすると、インスタント・ライスの開発に着手しました。その他にもタクシーの運営をやってみたりしましたがことごとく失敗します。取引所からもあそこはいつも業績を下方修正すると言われていました。
これが山内溥さんが建てた食品会社三近食品が販売したふりかけ。
やっぱり得意分野で勝負
いろいろやってみましたがほとんどがノウハウ不足で失敗。このことから得意分野で勝負するべきだと考えます。次の社長の岩田聡さんに「異業種には手を出すな」と強く言ったのはこのことからかもしれませんね。
コンピュータには別に詳しくない
ファミコンのヒットで本格的にコンピュータゲーム機メーカーへとなっていきますがコンピュータのことはよくわかっていなかったそうです。社員に完全に任せており、あまり口を出すことはありませんでした。
「任天堂はスポンサーのような企業だ」と宮本茂さんが過去のインタビューで述べていました。
この山内溥さんのクリエイターに対する姿勢がまさにそのまま任天堂という企業の特徴になっています。(ただ今の任天堂の経営スタイルは社長が変わったら変えてよいと言っていたので今はどうかわかりません)
滅多に笑わないけど社員からの人望は厚い
ファミコンが大ヒットしてここまで巨大な企業になったにも関わらずそんな時でも笑顔を見せることはあまりなかったそうです。京都財界の活動にも消極的で人付き合いの悪いイメージ。それでも社員からの信頼は厚く、「社長の笑顔が見たいから仕事をしている」と言うほどでした。
独創で独走
とにかく人と違うことをするのを大切にしていました。花札、トランプの工場を建てたときも玩具やゲームを作ったときも。
人と違うことを率先して行い、数々の失敗を経験しながら肌でこれは売れるか売れないかを判断する直感的な経営スタイルでした。
優れた直感を生かし、社運をかけた莫大な投資を行い、ワンマン経営で世界的大企業に育て上げた任天堂の中興の祖が山内溥という人物であったのだと思います。
余談ですが、山内溥の「溥」がなぜ「博」でないかというと電話帳で見た時に山内博がたくさんあってわかりづらいから変えたそうです。
この話は主にこの本をもとに書いています。
30年以上前に出版されたもので、山内溥さんについて書かれた数少ない資料の一つです。
現在プレミアが付いていますが、山内溥という人間を知りたい方は買って損はしないと思います。